生命保険の買取り(Life Settlement)と渋沢栄一 「保険は売るものではない」という幻想
「武士が商売などするものか!恥を知れ!」
「保険を売るだと?そんなものは外国の投機の真似事にすぎん!」
もし渋沢栄一が生きていたら、今の日本の生命保険買取り市場を見て何と言うだろうか?恐らく、彼が銀行や株式会社を日本に導入したときと同じように、世間の無理解と激しい批判に晒されるだろう。
今、日本で生命保険の買取り(Life Settlement)を語ると、「そんなのは生命保険の本来の姿ではない」「日本には合わない」といった声が上がる。だが、これはまるで明治時代に「株式会社は日本に馴染まない」と言い張った武士や商人たちの反応とそっくりではないか?
「株式会社なんて信用できるか!」──渋沢栄一が直面した反発
1873年、渋沢栄一は第一国立銀行の設立を進めていた。しかし、当時の武士階級や旧来の商人たちは、株式会社という仕組み自体に猛反対した。
「金儲けをすることがそんなに偉いのか!」
「商売は家業として一族で守るものだ。株なんぞで商売を回すなど、不誠実極まりない!」
「そもそも、銀行など不要だ!我々商人が信用取引を行えば済む話ではないか!」
彼らにとって、「商業は家業」であり、「株を売り買いするなど不誠実な行為」に映った。だが、渋沢は真っ向からこう反論する。
「商業は決して卑しいものではない。正しく運用すれば、人々を豊かにし、社会全体を発展させる。株式会社は欧米では成功し、多くの人が資本を活用して発展している。なぜ日本人だけがそれを受け入れられないのか?」
彼は、欧米の成功事例を示しながら、日本独自の制度として銀行を適用できることを説き続けた。その結果、第一国立銀行は設立され、日本全国に銀行制度が普及していくことになる。
だが、この激しい反発は、今の**生命保険の買取り(Life Settlement)**を取り巻く状況と驚くほど似ている。
「生命保険は売るものではない」──今の日本人の誤解
今、日本では「生命保険を売る」という考えに違和感を持つ人が多い。
「生命保険は家族を守るためのものだ。金儲けに使うべきではない!」
「解約するならともかく、第三者に売却するなんて信用できるか!」
「そんなことを認めたら、生命保険の本来の意義が失われる!」
まるで、明治時代に銀行を拒絶した武士や商人と同じ反応ではないか?
しかし、ここで改めて問いたい。
- 生命保険は契約者が長年掛けてきた資産ではないのか?
- 解約すれば保険会社に都合の良い金額しか戻らないのに、それを「当然」と思い込んでいないか?
- もし、正当な市場価格で売却できる選択肢があれば、契約者にとって有益ではないのか?
米国では、高齢者や難病患者が生命保険の買取り(Life Settlement)を活用し、保険を売却することで生活資金や医療費を確保している。 生命保険は「死んだ後に残すためのもの」ではなく、「生きているうちに活用するもの」に変わっているのだ。
道徳と経済の両立──渋沢ならどうするか?
渋沢栄一は、「道徳経済合一(どうとくけいざいごういつ)」の考え方を提唱し、「経済は決して不道徳なものではない。正しく活用すれば、社会全体を豊かにする」と主張した。これは、まさに**生命保険の買取り(Life Settlement)**の考え方と一致する。
**生命保険の買取り(Life Settlement)**は、単なる投機的な取引ではなく、契約者が自らの資産を適正な市場で売却し、より良い人生を送るための手段である。
渋沢が銀行を広めたときと同じように、「社会全体にとってどんな利益があるのか?」という視点で考えれば、その意義が見えてくるはずだ。
もし渋沢が今の時代にいたら、こう言うだろう。
「保険は契約者の資産である。その資産を最大限に活かすのが、正しい商業道徳ではないか?」
「新しいもの」への拒絶を乗り越えよう
新しい概念には違和感がつきまとう。明治時代の人々も「銀行は信用できない」「株式会社は不誠実だ」と思っていた。だが、それらは今や日本の経済を支える基盤になっている。
「生命保険を売る」という概念に違和感があるのは、単に日本人がそれを知らないからではないか?
「知らないから怪しい」と決めつけるのではなく、「それが社会全体にとってどんな利益をもたらすのか?」と考えるべきではないか?
渋沢栄一は、**「社会の進歩には、まず知り、そして理解することが必要だ」**と説いた。
**生命保険の買取り(Life Settlement)**もまた、正しく理解されれば、日本の高齢者や企業経営者にとって有益な選択肢となるはずだ。
今こそ、「古い価値観のままか、それとも新しい道を拓くのか?」を問うべき時ではないか。
2025年 2月 濱崎研治