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日本市場におけるMonopsony構造の研究

― 労働・農業・医療分野の事例と生命保険市場への新規適用 ―

  1. 序論

経済学において「独占」といえば、多くの場合、売り手独占(Monopoly)が議論の中心となる。供給者が市場を支配し、価格決定権を有する場合に生じる効率性の喪失や消費者余剰の減少は、政策的課題として長らく注目されてきた。他方で、買い手が市場を独占する「Monopsony」は、教科書的には存在が認識されながらも、日本の政策論争や学術的議論の中では十分に扱われてこなかった。

しかし、Monopsonyは単なる理論的概念にとどまらず、実際の市場に深刻な影響を及ぼす。買い手が一者または少数である場合、価格決定権は売り手から奪われ、資源配分の効率性は低下し、売り手の厚生は損なわれる。本稿では、日本におけるMonopsony論の先行研究を整理した上で、生命保険契約市場を新たなMonopsony事例として提示する。特に、米国におけるLife Settlement市場との比較を通じて、制度設計上の問題点と政策的含意を明らかにすることを目的とする。

  1. 日本におけるMonopsony研究の先行例

2.1 労働市場

日本においてMonopsonyが議論された代表的分野は労働市場である。地方都市における「企業城下町」では、特定大企業が地域雇用を事実上独占する構造が存在してきた。労働者は他に就業先の選択肢を持たず、結果として企業は市場均衡よりも低い賃金を提示することが可能となる[1]。この構造は、労働経済学におけるMonopsonyの典型例と位置付けられる。

2.2 農業・漁業市場

農協や漁協、さらには卸売市場が地域の生産物の唯一の買い手となる状況も、日本におけるMonopsonyの一形態である。生産者は事実上、特定の買い手に依存せざるを得ず、自由競争による価格形成が阻害される[2]。農業経済学や流通経済学の分野では、こうした価格決定メカニズムの歪みが繰り返し問題視されてきた。

2.3 公共事業入札

公共事業の発注主体が国や自治体に限られる点もMonopsony的である。建設業者が多数存在しても、発注者は公共団体のみであり、価格決定権は買い手に集中する。入札制度の設計や談合問題の背景には、Monopsony的な力関係が存在していると指摘できる。

2.4 医療・介護分野

日本の医療保険制度では、診療報酬を厚生労働省が一元的に決定する。医師や病院は自由に価格を設定できず、報酬体系は「唯一の買い手」である公的保険制度に依存する[3]。この構造もMonopsony的性質を持つものとして医療経済学で論じられてきた。

  1. 生命保険市場への新規適用

3.1 日本の現状構造

生命保険契約者が契約を終了させようとする場合、現行制度では「解約返戻金」を受け取る以外に選択肢はない。解約返戻金は保険会社が一方的に提示する価格であり、契約者は交渉余地を持たない。すなわち、契約者にとって保険会社は事実上「唯一の買い手」であり、日本の生命保険市場はMonopsony構造にあると位置付けられる。

3.2 米国との比較

米国ではLife Settlement市場が制度的に整備されており、複数のProviderが競争的に入札を行う。さらにBrokerが契約者の代理として交渉を行うことで、市場に透明性と競争性が確保される[4]。その結果、解約返戻金を大幅に上回る価格での取引が成立している。

例えば、保険金額5,000万円の終身保険契約(65歳男性、契約歴25年)の場合、日本の解約返戻金は500万円程度にとどまる一方、米国のLife Settlement市場では1,500〜2,000万円の水準で売買されるケースが確認されている。この価格差は、Monopsony構造による契約者不利益を如実に示すものである。

3.3 含意

生命保険市場をMonopsonyの視点から分析することにより、制度的に契約者が不利益を被っている実態が明らかになる。Monopsonyは単なる理論概念ではなく、実際に契約者の資産価値を奪い、生活の安定を脅かす現象として理解する必要がある。

  1. 考察

4.1 日本でMonopsony議論が乏しい理由

第一に、経済学教育や政策論争においてMonopolyが中心であったこと[5]。第二に、解約返戻金制度が「当然の仕組み」として受け入れられてきたこと。第三に、Life Settlement市場という比較対象が国内に存在しなかったこと。第四に、契約を資産と捉える文化が弱かったこと。これら複合要因が、生命保険市場のMonopsony性を不可視化してきた。

4.2 制度改革の方向性

Monopsony構造を是正するためには、以下の制度改革が必要である。

  1. 保険金請求権の自由譲渡の明確化(保険法・保険業法の整備)
  2. Providerの参入促進による競争市場の形成
  3. Broker制度の導入による情報の非対称性の解消と公正な価格形成

これにより、契約者はより高い対価を得られ、医療費・介護費・老後生活資金の確保に資する。

  1. 結論

日本におけるMonopsony研究は、労働・農業・公共事業・医療といった分野に限定されてきた。しかし、生命保険市場においても典型的なMonopsony構造が存在し、契約者は本来得られるべき資産価値を享受できていない。米国のLife Settlement市場が示すように、競争市場を整備すれば契約者利益は大きく改善する。

したがって、生命保険市場におけるMonopsony性を認識し、制度改革を通じて市場の公正性と効率性を高めることは、今後の重要な政策課題である[6]

脚注一覧

  1. 宮川努『労働市場のミクロ経済学』日本評論社, 2005年. ↩︎
  2. 農林水産政策研究所『農業市場と価格形成に関する研究報告』農林水産省, 2012年. ↩︎
  3. 厚生労働省『診療報酬制度改革の経緯と展望』白書資料, 2018年. ↩︎
  4. Neil A. Doherty & Hal J. Singer, “The Benefits of a Secondary Market for Life Insurance Policies,” Real Estate Economics, Vol. 30, No. 4, 2002. ↩︎
  5. 日本経済学会編『現代経済学辞典』有斐閣, 2019年. ↩︎
  6. 濱崎研治・長谷川仁彦「米国のLife settlementと介護資金形成」『生命保険論集』第215号, 2017年, 生命保険文化センター. ↩︎

 

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